高校二年生の時分、両親と今後の進路について話し合う時間があった。
その時に初めて、自分の夢を両親に告げた。
まるで現実味のないその夢に、両親は表には出さずとも困惑していた。
どうして応援してくれないんだ。
夢を持っちゃいけないのか。
どうせ無理だと思っているんだろ。
そんなことを、当時は強く思った。
大学を卒業して、上京した。
それから必死になって、夢を追いかけた。
その当時は、こんなんじゃ駄目だ、と自分に不満を言ってばかりだったが、それでも今振り返れば相当にすごい努力をしていたと思う。
努力をする中で、心の中に生まれた言葉は、自分には無理なんだ、というものだった。
きっとそれは、その夢を手にした時からずっとあったものだった。
悩んで、悩んで、胃潰瘍になり、生え際が後退してもなお夢を追いかけ続けた。
ほとんどが意地だった。
けれど、どんな時でも、いつなんどきでも、必ず心の中にあったのは「夢が叶った時の自分の姿」だった。
結局自分は、夢を叶えることができなかった。
そこから就職をして、今に至る。
休日はあっという間に過ぎ、金曜日を目指して耐えるだけの日々が繰り返される。
夢を追いかけていた日々は過去になり、霧のように薄れていった。大嫌いだった「儚い」という言葉の意味は、こういうことだったのかと実感した。
それでもお金は貯まり、不安はなくなり、買いたいものを買えるようになり、安定を手にした。
素直に、そこに幸せを感じられた。
正しさ、というものが、そこにはあった。
だけど、満たされなかった。
どれだけその幸せを注ぎ込んでも、空いてしまった穴から流れ出ていくのを感じた。
挙げ句、その幸せを偽りとまで感じるようになった。
ただただ過ぎていくだけの日々に怯え、時計を見ることすら怖くなった。
空いてしまった穴は、どうすれば塞がるのか。
呆れることに自分は、夢の続きを望んでいた。
夢は現実の対義語ではない。
夢は、現実の中にある。
そしてその現実は、どうしようもないほど思い通りにならない。
言葉にするとさらに切ないが、現実の大半は、お金でできている。
そのとても大切なことを身を以て知った今の自分が、また夢を持ちたいと思っている。
なんの保証もない道の上を歩きたいと思っている。
当然、足は動かない。
一歩目を踏み出せない。
どうしたって不安が顔を出してくる。
そして、最近になって気がついたことがある。
今の自分が、「夢が叶った時の自分の姿」を想像できていないことだ。
夢の続きを望んでいるのにもかかわらず、その姿をまったく想像していない。
今、心の中にあるのは、「夢が叶わなかった時の自分の姿」だけだった。
これは、悲しいことだろうか。
それとも、仕方のないことだろうか。
昔の自分が見る夢の先と、今の自分が見る夢の先。
見ている方向は同じなはずなのにと、そんなことを思った。
槻 ゆうき